今日は、ちょっと久しぶりの廣尾稲荷神社参拝でした。まずは香林院で高橋由一の墓参りを済ませ、そこから弁天閣、外苑東通りを跨いで稲荷神社へと向かいます。

 昇殿の許可を社務所で頂いて、お稲荷様と会話しているつもりの自問自答を30分ほど繰り返します。傍から見れば、瞑想風に見えているんでしょうが、頭の中ではズーーーっと自問自答と言うか、お稲荷様との会話というか…という時間です。
 以前、とある方とお話をした際(もしかしたら、以前、書いたかと思いますが)「お稲荷様ってツンデレなんですよね」と聞きました。これには私も同意です。というのも、信心なく参拝しても、何も感じて来なかった。これはどこの神社でもそうなんですが、お稲荷様は繰り返し、そして、大抵の稲荷神社で心からお祈りをしていると、ある日、突然、打ち解けた気がしてきます。不思議な感覚なのですが、お稲荷様だけに感じる何かがあるんですよねぇ…。

 で、今日、何となく浮かんできたテーマが漢意(からごころ)。これに対してのヤマトダマシイ。ココらへんは、サイト内にある人物列伝として取り上げた平田篤胤の稿で書いているのですが…。で頭の中に浮かんだヤマトダマシイが「和魂」だったのですね。で勝手に納得したのが「あー、ニギタマとヤマトダマシイって同じ表記で成立するんだ」って、まぁ当たり前の事なんです。上手とかいてジョウズでもあり、ウワテでもカミテでもあるって事です。が、もう一つ納得したのが「和魂」が集まって「大和魂」になるんだなぁ。と。まぁ、勝手な妄想ですが😁。
 ただ、一人ひとりの心が和魂として、その集合体が大和魂(これも、先程のリンク先で少し触れています)になるのか。とか。
 言い繕って強弁したり、屁理屈をこねくり回して責任回避をするような事が漢意であり、今、そんな風潮がメインストリームだとしても、お稲荷様も日本の神様も喜ばないんだろうな。というご託宣を頂いたような気がして、それなら芥子粒みたいな私でも、お稲荷様が喜んでくれるような強情な人に優しいニギタマと、あるがままを良しとするヤマトダマシイの和魂を持っていたいなぁ。と思った次第。
つまりは、日本人らしさ。みたいなのを大切にしていればOKって話でした。