私にとって、いや日本人にとって神社やお寺は食事や教育と同じ様に必要なものだと思っています。別に大上段に振りかぶって「だからお経を覚えよう」とか「例祭には正装で参拝しよう」などと書くつもりは毛頭ありません。

 新渡戸稲造の昔から「日本人の宗教意識は薄い?」と言われたり、自分たちで思い込んでいるのではないでしょうか?私自身、学校(左派勢力が強い時代でした)で「日本人は平気でキリスト教のクリスマスを楽しむもんね」とか「バレンタインデーだってキリスト教だよ」「お葬式は仏教で結婚式は神社?変だよね」と言われ続けて「確かになぁ。外人だったら教会ばっかだよな」とか思ったものです。
 でも今、この教育や言葉は間違いだと言えます。日本人は少なくとも仏教伝来以降、仏教と神道が並行して、時に上下関係をもって信じられてきました。その根源にあるのは「八百万の神」と言う多神教独特の文化や宗教観にあると思うのですね。天照大御神は大日如来と、今や神社の代表格は明治維新まで八幡大菩薩としてお寺でも大切にされてきました。こうした中で、豊臣秀吉以降、禁教とされていたキリスト教が明治以降、布教活動が許されるようになって、西洋人から見たら異様かもしれませんが、今では普通にクリスマスもバレンタインデーも「ハレ」の日の行事になっています。これも、元々、神社の例祭、お寺の縁日が「ハレ」として扱われてきたのと同じ感覚で(商業的なベース作りがあったとは言え)、浸透しやすい土壌が日本にあったからではないでしょうか。
 逆に今ではキリスト教徒が多いハズのアメリカではクリスマスと言わずにホリデーズと、他の宗教との差異を言葉で埋め合わせる必要が出ていますが、日本では、そんな必要はなく12月になればサンタさんとトナカイが街中に溢れかえりますよね。そのうち、言葉狩りでクリスマスと言わないアメリカやヨーロッパの風潮が日本に入ってきたとしても、多分、そのまま受け入れるんでしょう。それは宗教観がないからではなくて、多神教であるがままハレの日を楽しむ文化だからなんですよね。


 そして、もう一つ、神社やお寺が必要な理由があります。それ土地の歴史、人の歴史の積み重ね、積層が神社やお寺に残されているからです。以前にも書きましたが、弁慶ゆかりの神社仏閣が東京にも幾つか残されています。それは、そのまま、鎌倉から東北へ向かった源義経の逃避行の足跡にもなっています。
 また太田道灌や豊島氏など東京の西北部を中心に、江戸時代以前の地方豪族、坂東武者の砦や城跡が神社や仏閣として残されていたりもします。また同じように城跡と言われる渋谷の金王八幡宮は、渋谷と言う地名の元となった渋谷氏にゆかりで、これが、神奈川に移動して高座渋谷として地名に残ります。時代が下ると共に薩摩へと移動した渋谷氏は東郷へと改姓して薩摩藩士となり、明治維新後は東郷平八郎と言う英雄を生み出した訳です。そして今では祖先の土地だった渋谷区内に東郷神社の御祭神としてお祀りされていますよね。こうして、一つ一つ、点として神社の由緒を見ているだけではなく、線、あるいは面、そして歴史のお勉強や伝承、伝説を眺めながら、神社仏閣を見ると、その神社仏閣が失われていたら、そのまま、「伝として」と都市伝説や、説話的な話しか残らないのではないでしょうか。正に歴史の証拠・証人として神社仏閣が必要なのですね。
 以前、シドニーに出張した際、夕食に招待してくれた現地の人が角を曲がるたび「このビルは○○で」と古びたビルの歴史を自慢気に話してくれました。ビルの歴史が、そのまま移民、そしてシドニーやオーストラリアの歴史になっているから、彼らには自然と身についた歴史の証拠なのでしょう。
 一方で、日本人(東京視点です)が「靖国神社はいつ作られたのか」「深川不動と富岡八幡宮、古いのはどちら」と聴かれて、即答出来る人は案外少ないものです。(ホントに)。
 では、それが日本人が自国史を軽視しているのか?と言われれば、それは確かに一方において正解です。が、一方では、子供の頃に古事記から抜き出された因幡の白兎や素戔嗚尊の説話、天の岩戸の話を知っていれば、連綿とした歴史を肌身に感じていて、一々の建物や神社に捕われなくても、日本の歴史、郷土の歴史をきちんとお腹に修めている状態なんじゃないでしょうか。私自身、歴史は大好きですが、元号や年には詳しくありません。テストの問題で「○○は何年に起きた?」と出れば、まぁ勘で答えるタイプなんです。でも歴史は得意でしたし、今でも大好きです。それは、オノコロ島が出来たところから、今に至るまでストリー性があるからなんですね。特に人名がグチャグチャ出てくる戦国時代や幕末・明治維新ともなると、○○年よりも、誰と誰が仲違いし、和解し、策謀を巡らし、策謀に踊らされたのか。と言う読み方をすれば、概ねの人物が前後関係と共に浮かび上がってくるはずです。暗記なんて必要なく、きっと(私としては)素敵な歴史年表が頭の中に出来上がるんじゃないでしょうか。
 そして、その歴史年表を思い浮かべながら、神社やお寺に言ってみると、いつも意外な発見があるものです。そして、その歴史が日本人が積み重ねてきた独特の宗教観の基礎になっていると気づくんじゃないでしょうか。