お寺によって、あるいは宗派によって一種の閉塞感…と書くと大げさですが敷居の高さを感じることがあります。日蓮宗ので頂ける御朱印の一種、御首題もその一つかもしれません。脇に逸れるのですが、この御首題は、池上本門寺などで頂けますが日蓮宗以外の御朱印が書かれた御朱印帳・納経帳には書いて頂けません。
 さて、そんな宗派特有の様式の他に、例えば秘仏というものもありますね。東京なら浅草寺の御本尊が絶対秘仏として有名で、誰も直接拝むことができません。しかし、縁日や年を決めて御開帳される秘仏もありますし、ご本尊が秘仏の場合、御前立ち言って本尊の前に代わりの仏像などが安置されている事も多く、それに対して閉塞感を感じることは少ないように思います。
 お寺に感じる閉塞感、いや閉塞感を感じさせるお寺の特徴として、本堂の扉が常にガッチリと閉ざされ、お檀家さんの法事でもなければ開かれないんだろうなぁ…と思う時です。ある意味、お堂内自体が外部の人間には秘密の空間(聖域)になっている訳ですね。
 私の場合、それでも構わず出来る限りお堂に近づいて中にいらっしゃる御本尊を想像しながら参拝する訳です。
 大切なものは隠すのが秘仏を含めて日本の文化ではありますし、お檀家さんがお寺にとっては収益、そして様々な支援の主軸なのは間違いのないところだと思います。ただ、霊園の募集だけではなく、できれば一般の参拝者にも何か開いた場、例えば年次の縁日などでお寺に一般、近隣の人が集える場を作っていただけないかなぁ。その時に限って本堂の扉を開いて貰えないかなぁ。などと妄想したりしています。