以前、My神社を持とうということを書きました。基本、My神社=氏神様だと思います。じゃ、私が氏神様だけにお参りしているのか?と聞かれれば、答えは「No」です。
 いわゆる「崇敬神社」ですね。崇敬神社は旅に出た先の神社でもOKです。そして私の場合、崇敬神社として言い方はわるいのですがランク付けをしています。
1) 旅先のメジャーな神社だから参拝した
2) 空気や雰囲気、何か惹かれるものを感じた
3) 自分の頭の中にイマジネーションが浮かんだ
の三段階です。実は、つい最近までは1か2の区別しかありませんでした。1は御朱印があれば頂くし、なればお参りだけして終わる。そして2は自分の中でMy神社と考えて昇殿参拝をして御札を頂いたり、お守りを頂いたりしていました。だから、これも良くないのですが、まだお戻しできていないお守りを沢山持っています。
 では3を作った理由は双方向参拝を始めてからです。拝殿や祠にお参りした時に何らかのイマジネーションを感じられるかどうかです。既に数百の神社・仏閣にお参りをしてきて思うのは、景色や建物の立派さに感銘を受けたり、歴史の深さをしみじみと感じる立派な神社仏閣はあります。が、例えば「匂い」…同じ神社にお参りしても、檜の香りを強く感じる日と、ほぼ無臭な日があります。が、檜の香りのする神社、それが強く記憶に残るような神社で双方向参拝を試してみると、色々な応援をして頂けているような気がします。匂いではなく、感覚の場合もあります。社殿の前に立った瞬間に空気砲でも打たれたような柔らかな圧力を感じるような事が実際にあったりします。こういった神社が私にとっての「3」なのです。 ただ、残念ながら3でありながら御札も御守も頒布していない神社もあります。そんな神社はiPhoneの待受にしたり、Macのスクリーンセーバーにして、いつでも見られるように、身近にいる感覚を残せるようにしています。沢山の神社にお参りしていると、そんな「特殊な感覚」を受ける神社、それも名もなき小さなものでも自分には特別な印象を残す神社が見つかるはずだと思います。
 別に批判をするつもりはありませんが、例えば自分と神社の相性を「属性」で紐付けするような案内もありますが、そのような紐付けで紹介される神社は基本、有名神社だけです。感覚的に言えば20社程度ではないでしょうか。数百を軽く上回る都内の神社のわずか1%にも満たない神社の中では…ちょっと偏りが酷いのではないのかな?と思うんですね。
 それよりも、自分の足で歩いてみて、そして鳥居をくぐったところから自分に合う神社を探してみるほうが実は遥かに効率が良いのです。例えば私なら一つの区に平均2〜3はMy神社を挙げられると思っていますし、その中には無名というと御弊がありますが、殆ど名前も知られていない神社もあるのです。
 逆もまた真な事もあります。「パワースポット」や「○○のご利益なら、ここ」と言われる神社や神社内の施設に何も感じない、場合によっては神社の疲弊すら感じる事もあるのです。このような神社では、お願いやお礼をするよりも、頑張ってくださいというしかないのです。失礼な言い方ですが、こちらからパワーを差し上げないと、寂れてしまったり、公園や駅前の広場のように雑多な人の空気に覆われているだけで、聖域としての清浄な空気を感じることはできないと思うのですね。
 都内の神社には僅かな境内地しかなく、一見、そこに足を踏み入れても聖域のような感覚は無いだろうと高をくくるような神社も少なくありません。でも、実際に鳥居の内外で明らかに温度なのか湿度なのかは判りません。でも、明らかに空気の違う神社、騒音がなくなる神社があるのです。不思議ちゃんみたいな事を書いているのかも知れませんが、神社、そして仏閣には立木の数や交通量、立地などでは説明のしようのない外界と違う空気を持っているところがあるんですね。それを感じるためには自分の五感、チューニングを合わせておく必要もあるのかもしれません。漫然と歩いているだけでは気づかないスポットがあるのかもしれません。でも、かなりの数の神社仏閣には独特の空気感があり、その中に自分が心地よく感じる匂いや音、風が吹いているはずです。わずかに数百メートルも離れていなくても全く違う空気を感じることばかりなのです。「あー、ここの神様はお疲れな様子だな」と思って、すぐ近くのもっと小さな神社に参拝すると「元気モリモリだね」と想うことがあるんです。
 もし、御朱印や七福神巡りで、幾つもの神社・仏閣を訪れる機会があれば、是非、その空気感の違いを感じてみてください。そして、その中の一社・一寺でも良いので、My神社・仏閣が見つかることを心から願っています。