今回はちょっとスピ的な事も含めて「ついで参り」というものの是非について書いていこうと思います。
 「ついで参り」と言うのは何かのついでに神社やお寺にお参りすることです。私のようにマニアックに参拝するような人でなければ初詣や七五三などの人生儀礼での参拝が主になるので「ついで参り」は極まれなのかもしれません。しかし、できるだけ沢山の神社やお寺に参拝したいと考えていると、どこかにでかけたついでに見つけた神社にお参りすることが少なくありません。時には普段使っている道なのに、いきなり「あれ?こんなところに神社が」と認識してお参りすることもあります。つまり、私は「ついで参り」三昧な日常を過ごしていることになります。
 鬱になって長期休暇に入って以来、Youtubeを観る時間がとても増えました。観るジャンルはバラバラでニュースや国際情勢分析、オカルト・スピリチュアル、お笑い、そして仏教の法話など手当り次第と言って良いのかもしれません。そして、その仏教の法話を見ていて、あるお坊さんがお参りの仕方などの解説をしているチャンネルを見つけ、何本か拝見していました。その中に「ご利益を賜るには」と言った内容の解説動画があり楽しみに見ていたのですが、概要としてこんな解説がされていました。
1) 仏様も神様も沢山の人に来てもらうことが好き
2) ご利益が頂けたら秘密にせず、是非、周囲に話して沢山の人にその神社やお寺に来てもらえるようにした方が神様も仏様も喜ぶ
3) 但し、仏様は悟りを開かれているので心配ないが、神様は悟りに至っていない気位の高い存在なので幾つもの神社に願掛けしたり、ついで参りと言われる何かの用事のついでにお参りすると嫌われる
と言った内容でした。
 つまり、ついで参り三昧の私は神様から嫌われていることになります。
「だから鬱になってんだよ!」と言われるかもしれませんね。
 でも、私の今の状況は「不幸中の幸い」だと思っているのです。怪我に例えれば、放置していれば複雑骨折をしていたものが単純な骨折で済んだ。という感じです。つまり、救われた状態だと思っているんですね。これが冒頭に書いたスピ的な事の第一です。言い換えれば思い込みで終わる話です。
 が、以前にも書いたかも知れませんが、音楽を聞きながら通りすがりの神社に鳥居前から遥拝しようとした時、突然、ワイヤレスイヤホンの音が止まりました。もしかしたら神様が何かを伝えようとしているのに「邪魔な音楽なんぞ聞きおって!!」と言うサインかと思い、イヤホンを外し一礼をしたところで「力はある。導く」と言われたような気がしました。この神社も、朝の散歩のついでにお参りした神社です。でも、イヤホンも故障したわけでもバッテリーが切れたわけでもなく、遥拝を終えて耳に装着し直したら普通に音楽が再生されているんですから…。まぁ、思い込みでも偶然でも、私にはとても力強いメッセージになりました。
 そして、それ以来、早朝散歩も含め、神社やお寺にお参りするときには鳥居や山門を潜る前にイヤホンを外し、日頃の御礼とお願いをした後、神様や仏様が何か言ってくれているんじゃあるまいか?と深く例をしたまま暫く静止するようにしています。すると心の中に励ましの、あるいは叱咤するような言葉が浮かんでくるんですね。それを忘れないうちにiPhoneのメモに残すようにしています。
 そしてある日、とあるお寺で、そんな習慣の話をしたら「その言葉、自分の中にだけしまっておくのはもったいないですよ。第三者にも公開してください。あなたが救われたと思うなら、同じように感じる人もいるはずだから」と言われ、今、自分のサイトに「お言葉集」的なページを制作準備中です。いや、超恥ずかしいんですけどね(😁)。
 で、冒頭の「ついで参り」ですが、私はどんどんやるべきだと思います。ついで参りが悪いと言うなら、それなりの神社には必ずある境内社へのお参りもついでのお参りになってしまいますし、駅前や路地裏にある小さなお稲荷様だって門を閉めて氏子さんや講の方々だけが参拝できるようにしているはずですよね。それが開放されていると言うことは、ちょっとの時間でも神様に挨拶する場所を開いていてくれているんだと私は思っています。だから、Google Mapに乗っていないような小さな神社でも私のサイトで書いてきているわけです。
 で、ここで本題は終わり。ここからは余談です。
 日本では江戸時代まで神仏習合。本地垂迹として仏様と神様を一体化させ約1,000年の時間を過ごしてきました。しかし、一方で原始の仏教ではヒンドゥーの神様を帰依させ、天部の神として位置づけてきた歴史があります。私が先に書いた動画でも神様の姿は日本の古代の「みずら」と言われるような髪型でもなく、南アジアや東南アジアの僧侶を思わせるような片方の肩から垂れた衣を着た姿で、神社にいる神様を想像させるものではないわけです。動画を作ったお坊さんは、多分、とても真面目に経典などを読み、勉強をし、神様と仏様の違いを説明してくれているのでしょう。が、大きな間違いがあると私は感じたのですね。それが神仏習合、本地垂迹です。明治政府により、これが法や様々な圧力で引き裂かれ、お坊さんの言うように神様と仏様は異なるものとされるようになっています。が、日本の神様は仏様並におおらかで、ついで参りだって受け入れてくれる寛容な存在なんです( ー`дー´)キリッ。
 少なくとも、私がお参りした神社では「ついで参りもOKだよ!」って神様から言われてますし(😁)。